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2011-11-10
思考は誰のもの?
私達は日々過ごす大半を無意識の過ごしています。
そのように話すとそんな事はないのではと考える方も多いかもしれません。
常に自分は考えているし、常に適切な答えを探しているし、目標を持ちそれに向かうための戦略だって十分意識しているのだから、それの何処が無意識なのか?という方もいるでしょう。
でも厳密にいえば、これは無意識に囚われている状態ともいえるのです。
ではなぜこれのいったい何処が無意識に囚われているといえるのでしょうか?
これは他を認識し理解するために、自分という仮想の対象を思考が作り上げているのも一つの原因になります。
自分の考え、自分の家、自分の親、自分の友達etc・・・・・
自分のものという言葉が付く物をあなたはいくつ持っているでしょうか?
そしてそれらは本当に自分のものなのでしょうか?
太古の昔よりこの世界で私達が生き延びてくるためには、ある程度自分のものという意識が必要でした。
そうでなければ自分というものが日々何か食べ物を得る事さえ出来なかったでしょう。
自分というものが日々休む安全が確保されそうな巣を得ることも出来なかったでしょう。
これらは私達が生き延びてくるために必要不可欠な本能として機能してきました。
しかし時は変わり、私達を取り巻く環境は石器時代とは大きく様変わりしました。
社会というある一定のルールが生まれ、また安全を確保するための環境も整い、今何かを食べなければ何時餌を見つけることが出来るのか?今身を隠す事が出来なければどのように身の安全を保てるのか?などという危険性は少なくなりました。
しかしこの自己防衛本能に関しては、基本的に太古の昔から変化がありません。
それはある意味地球上に生命体が誕生した時から基本的に変わりがないのです。
ただ今現在身を守らなければならない本能がその姿形を変えて、その本能の中に悩まし記憶という新たなデーターが書き込まれてきて、それが思考という形に姿を変えてきたのです。
本来身体の自己防衛機能を有する本能ですが、何時しかその記憶自身を守るという本来の目的とは異なるものになり、機能不全を起こした状態を作り出してきたのです。
その為自分の考えを否定されたり自分の立場を否定されれば、そこには他人の考えや他人の立場という敵を生み出し、様々な軋轢や弊害を引き起こしてしまうものなのです。
しかしそのような事を考えている自分を客観的に観察した経験はないでしょうか?
様々な感情を引き起こす自分自身の考えというものを、別な次元で観察している事に気が付いた事はないでしょうか?
この気付きが本来の自分自身の姿なのです。
そしてこの気付きがある瞬間、それらの思考は自分自身の本来の姿ではないことに気が付くのです。
この気付きは無意識の中では生まれません。
無意識は思考に囚われた状態を指すのです。
その意識の目覚めがあるとき、思考は誰のものでもなく、自分自身のものではないことに気が付くのです。
そのように話すとそんな事はないのではと考える方も多いかもしれません。
常に自分は考えているし、常に適切な答えを探しているし、目標を持ちそれに向かうための戦略だって十分意識しているのだから、それの何処が無意識なのか?という方もいるでしょう。
でも厳密にいえば、これは無意識に囚われている状態ともいえるのです。
ではなぜこれのいったい何処が無意識に囚われているといえるのでしょうか?
これは他を認識し理解するために、自分という仮想の対象を思考が作り上げているのも一つの原因になります。
自分の考え、自分の家、自分の親、自分の友達etc・・・・・
自分のものという言葉が付く物をあなたはいくつ持っているでしょうか?
そしてそれらは本当に自分のものなのでしょうか?
太古の昔よりこの世界で私達が生き延びてくるためには、ある程度自分のものという意識が必要でした。
そうでなければ自分というものが日々何か食べ物を得る事さえ出来なかったでしょう。
自分というものが日々休む安全が確保されそうな巣を得ることも出来なかったでしょう。
これらは私達が生き延びてくるために必要不可欠な本能として機能してきました。
しかし時は変わり、私達を取り巻く環境は石器時代とは大きく様変わりしました。
社会というある一定のルールが生まれ、また安全を確保するための環境も整い、今何かを食べなければ何時餌を見つけることが出来るのか?今身を隠す事が出来なければどのように身の安全を保てるのか?などという危険性は少なくなりました。
しかしこの自己防衛本能に関しては、基本的に太古の昔から変化がありません。
それはある意味地球上に生命体が誕生した時から基本的に変わりがないのです。
ただ今現在身を守らなければならない本能がその姿形を変えて、その本能の中に悩まし記憶という新たなデーターが書き込まれてきて、それが思考という形に姿を変えてきたのです。
本来身体の自己防衛機能を有する本能ですが、何時しかその記憶自身を守るという本来の目的とは異なるものになり、機能不全を起こした状態を作り出してきたのです。
その為自分の考えを否定されたり自分の立場を否定されれば、そこには他人の考えや他人の立場という敵を生み出し、様々な軋轢や弊害を引き起こしてしまうものなのです。
しかしそのような事を考えている自分を客観的に観察した経験はないでしょうか?
様々な感情を引き起こす自分自身の考えというものを、別な次元で観察している事に気が付いた事はないでしょうか?
この気付きが本来の自分自身の姿なのです。
そしてこの気付きがある瞬間、それらの思考は自分自身の本来の姿ではないことに気が付くのです。
この気付きは無意識の中では生まれません。
無意識は思考に囚われた状態を指すのです。
その意識の目覚めがあるとき、思考は誰のものでもなく、自分自身のものではないことに気が付くのです。
2011-11-06
将来のいつかを放棄する
問題解決のプロセスである、記憶の浄化クリアリングメソッドとして「ホ・オポノポノ」を実践している方にとって、
「ごめんなさい」
「許してください」
「ありがとう」
「愛してます」
と言う4つの言葉はとても馴染みの深い言葉です。
またブルーソーラーウォーターなど様々なアイテムを、記憶のクリアリングアイテムとして認識されている方も多いと思います。
これは「ホ・オポノポノ」を提唱するヒューレン博士によっても広く伝えられたこともあり、「ホ・オポノポノ」とは切り離せないものであると認識されている方も多くいることでしょ。
さてこれらを実践されている方々の中にはその効果が実感して現れる方もおりますが、今までとなんら変化を感じられず、その効果のほどをあまり感じられないと思われている方も多いかもしれません。
「ホ・オポノポノ」では記憶の浄化をとし、それによって問題を解決へ至らせる事が主な目的です。
ではなぜ記憶の浄化が必要かといえば、それは記憶は様々な思考を生み出すからなのです。
そしてその思考は様々な感情を生み出します。
その感情は更なる思考を生み出し、その思考は全て記憶として蓄積されていきます。
そして再び記憶が思考を刺激して・・・・・・・
これらの繰り返しが悩ましき記憶の再生と呼ばれるものです。
その思考の大半はエゴから出来ており、物事に対して善悪など二極化した物語を生み出したり、自分の正義の正当化のため悪を生み出したり、常に自分以外の敵を生み出してしまいます。
そしてその記憶の中に囚われた状態が、目の前の実感できる現実として具現化されているのです。
私達は普段周囲から様々な刺激を受け、それらを実感していると錯覚しています。
しかし実際は、その時間の大半を無意識に過ごしている事が多いのです。
たとえば通勤途中の時間であれ、仕事中であれ、会議や誰かとの会話の途中であれ、そこでは無意識から湧き上がる思考が常に再生され続けているのです。
でもよく注意してみると、その思考の大半は目の前の必要な行動とは無関係の事が大半で、過去の出来事や未来への想い等、今この瞬間の事とは無縁な妄想の世界でもあるのです。
しかし記憶が生み出すこの思考というのはとても狡賢く振る舞い、それらが単なるエゴが生み出す思考の再生である事を気付きにくく振舞うのです。
こうして私達はこのエゴが織り成す思考に囚われた状態となり、その状態からなかなか抜け出せなくなるのです。
この悩ましき記憶の再生を断ち切る方法の一つに「ホ・オポノポノ」というクリアリングメソッドがあるのです。
もしかしたら未来の何時かきっと記憶が浄化され、生き生きとした自由で幸せな時間を手に入れられるかもしれないという期待があるのなら、それはすでにエゴが生み出した思考の一部です。
4つの言葉を唱え続ければ、将来幸せになれるのではありません。
ブルーソーラーウォーターを飲み続ければ、将来の何時か記憶が浄化されるのではありません。
将来の何時かは、エゴが生み出した約束できない幻想の世界です。
出来るのは今この瞬間のみです。
今この瞬間に留まる限りエゴは存在できません。
今この瞬間に留まる限り、記憶も思考も再生されません。
過去でも未来でも、私達が在るのは今この瞬間のみです。
それ以外は記憶や思考の中でしかなく、そこはエゴの蔓延する世界なのです。
「ホ・オポノポノ」というクリアリングメソッドも、今この瞬間に留まり、大いなる知性との繋がりを持つための入り口なのです。
将来の何時かという期待を放棄し、今この瞬間を感じるだけなのです。
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2011-11-03
溢れ出る独り言
これは私がよくお世話になるバイク屋さんでの出来事です。
平日の夕方や休日の午後になるとお店の常連さん達が集まってきて、店の片隅でバイク談義に花を咲かせています。
そんな常連さん達の中にたまに見かける顔の方がいます。
しかしいつもその方の直ぐ側には誰も近付こうとしないのです。
そのため周囲のほかの人はその彼とは少し席を空けて座り、その彼との会話もめったにありません。
外見はごく普通のおとなしそうな中年男性ですので、極悪非道の暴れ者というイメージもなく、身形がおかしいというわけでもありません。
もちろんゲイや女装趣味という方でもなく、何処にでも居そうな方なのです。
私も何度か会話をしたことがありますが、特別おかしいということもなく普通に会話も成立します。
ただ常連さんの大半は、積極的に彼に話しかけることも殆どなく、彼はそんな話を遠巻きに聞いて楽しんでいる事もあるのです。
めったにお店に来ないお客さんの中には、同席したのを機会に彼に話しかける方もいますが、そこで話が盛り上がってという事も殆ど無く、二言三言で会話が終わってしまう様子です。
そしてその後再び彼に積極的に話しかけることも無く、他の常連さんたちと同じように対応するようになるのです。
ではいったい彼の何がそのようにさせてしまうのでしょうか?
実は他の人を遠ざけてしまう理由が彼にはあるのです。
それは彼の時折見せる行動に原因がありそうです。
さてその奇妙な行動とは・・・・・
常にというわけではないのですが、彼は時折見えない誰かと会話をするのです。
突然彼が話し始めて、その声を聞いて返事をしても彼に何?という態度をとられてしまうのです。
そして一人でいても誰かに向かって話をしているのです。
もちろん彼がその誰かと会話中で無ければ普通の会話が成立します。
しかし彼は人の話していることを聞いている様子を見せても、頭の中では誰かと会話中ということがよくあるようで、結果的に人の話を聴かない方と思われてしまうのでしょう。
そのような奇妙に映る行動が原因で、誰も彼に対して積極的に話しかけることも無くなり、また近付いて座ろうともしなくなったのかもしれません。
このように話をすればその通りと納得する方も多くいるかもしれません。
しかしこのような奇妙とも映る行動は、実は自分達にもまったく無関係ではありません。
もちろん周囲の誰もが奇妙だと感じるほどの行動こそ起こしていませんが、私達の思考は殆ど休むことが無いほど独り言が再生され続けています。
その独り言を言葉や行動あるいは態度として示すことが少ないだけで、通勤途中であっても、仕事中であっても、あるいは恋人の話を聞いている途中であっても、この独り言が再生続けられていることが多いのです。
誰もが自分の話を聞いて欲しいと願います。
そして理解してもらいたい、あるいは認められてもらいたいという願望を持ち合わせています。
だからこそ真剣に相手に話しかけるのです。
でもその一方では、家族や友人知人との会話の中でも頭の中の独り言に夢中になり、その独り言と無意識に同一化している事も多々あります。
その時の独り言は今目の前の会話をしている相手ではなく、過去や未来を含めた幻想の世界での出来事です。
目の前の相手の言葉を聞くという実在ではなく、幻想の世界を通して聞いてしまうのです。
独り言に囚われた状態に気が付く事が無く、無意識に独り言と同一化してしまう場合、最悪その延長線上に先ほどの奇妙な行動をとってしまう彼のようになるのです。
もちろん本来の自分自身の意識がその事に気が付くことができれば、その独り言から離れる事も出来ます。
しかし気が付かない限りこの溢れ出る独り言は留まる事を知りません。
そして気が付かないまま過ごすうちに、やがて独り言が本来の自分自身に取って代わる事もあるのです。
あなたは今頭の中で何を考えていますか?
今頭の中でどのような独り言が再生されていますか?
それは今この瞬間に対してどれほど重要な事なのでしょうか?
平日の夕方や休日の午後になるとお店の常連さん達が集まってきて、店の片隅でバイク談義に花を咲かせています。
そんな常連さん達の中にたまに見かける顔の方がいます。
しかしいつもその方の直ぐ側には誰も近付こうとしないのです。
そのため周囲のほかの人はその彼とは少し席を空けて座り、その彼との会話もめったにありません。
外見はごく普通のおとなしそうな中年男性ですので、極悪非道の暴れ者というイメージもなく、身形がおかしいというわけでもありません。
もちろんゲイや女装趣味という方でもなく、何処にでも居そうな方なのです。
私も何度か会話をしたことがありますが、特別おかしいということもなく普通に会話も成立します。
ただ常連さんの大半は、積極的に彼に話しかけることも殆どなく、彼はそんな話を遠巻きに聞いて楽しんでいる事もあるのです。
めったにお店に来ないお客さんの中には、同席したのを機会に彼に話しかける方もいますが、そこで話が盛り上がってという事も殆ど無く、二言三言で会話が終わってしまう様子です。
そしてその後再び彼に積極的に話しかけることも無く、他の常連さんたちと同じように対応するようになるのです。
ではいったい彼の何がそのようにさせてしまうのでしょうか?
実は他の人を遠ざけてしまう理由が彼にはあるのです。
それは彼の時折見せる行動に原因がありそうです。
さてその奇妙な行動とは・・・・・
常にというわけではないのですが、彼は時折見えない誰かと会話をするのです。
突然彼が話し始めて、その声を聞いて返事をしても彼に何?という態度をとられてしまうのです。
そして一人でいても誰かに向かって話をしているのです。
もちろん彼がその誰かと会話中で無ければ普通の会話が成立します。
しかし彼は人の話していることを聞いている様子を見せても、頭の中では誰かと会話中ということがよくあるようで、結果的に人の話を聴かない方と思われてしまうのでしょう。
そのような奇妙に映る行動が原因で、誰も彼に対して積極的に話しかけることも無くなり、また近付いて座ろうともしなくなったのかもしれません。
このように話をすればその通りと納得する方も多くいるかもしれません。
しかしこのような奇妙とも映る行動は、実は自分達にもまったく無関係ではありません。
もちろん周囲の誰もが奇妙だと感じるほどの行動こそ起こしていませんが、私達の思考は殆ど休むことが無いほど独り言が再生され続けています。
その独り言を言葉や行動あるいは態度として示すことが少ないだけで、通勤途中であっても、仕事中であっても、あるいは恋人の話を聞いている途中であっても、この独り言が再生続けられていることが多いのです。
誰もが自分の話を聞いて欲しいと願います。
そして理解してもらいたい、あるいは認められてもらいたいという願望を持ち合わせています。
だからこそ真剣に相手に話しかけるのです。
でもその一方では、家族や友人知人との会話の中でも頭の中の独り言に夢中になり、その独り言と無意識に同一化している事も多々あります。
その時の独り言は今目の前の会話をしている相手ではなく、過去や未来を含めた幻想の世界での出来事です。
目の前の相手の言葉を聞くという実在ではなく、幻想の世界を通して聞いてしまうのです。
独り言に囚われた状態に気が付く事が無く、無意識に独り言と同一化してしまう場合、最悪その延長線上に先ほどの奇妙な行動をとってしまう彼のようになるのです。
もちろん本来の自分自身の意識がその事に気が付くことができれば、その独り言から離れる事も出来ます。
しかし気が付かない限りこの溢れ出る独り言は留まる事を知りません。
そして気が付かないまま過ごすうちに、やがて独り言が本来の自分自身に取って代わる事もあるのです。
あなたは今頭の中で何を考えていますか?
今頭の中でどのような独り言が再生されていますか?
それは今この瞬間に対してどれほど重要な事なのでしょうか?
2010-12-21
恐怖と欲望
恐怖と欲望というと、皆さんはどのようなイメージをもたれるでしょうか?
この二つの感情に対して、私たちはあまり良い印象を持たない方も多いかもしれません。
恐怖とは恐れであり、できればそのような感情は避けて通りたいと思う不快な感情でもあります。
また欲望といえば、とても強欲にになり、すごく自分勝手な感情のように思われますので、今の社会のルールからすればとても不適切な感情と捉えられ、貧欲こそ美徳であるかのような風潮さえあります。
さてこの二つの感情ですが、共に私たちにとっては不適切極まりない感情であり、できればどこかそれらを覆い隠してしまいたいと思うものです。
しかし生まれ持った時より備わるこの二つの感情があったからこそ、私たち人間は絶滅する事も無く生き延びる事ができたのだと思います。
この感情は私たち人間だけのものではなく、他の動物たちにも多かれ少なかれ備わった原始的なものでもあるのす。
多くの人たちは幸せになりたい幸福を手に入れたいと願っているのではないでしょうか?
当然私自身もその一人でもあります。
しかし幸せになりたいの願い続けても、果たしてそれらを十分達成した方はどれほどいるのでしょうか?
ところで皆さんはどうなれば幸せと感じますか。
大金を手に入れセレブのような生活をしたら幸せ
好きな異性と上手くいけば幸せ
何かの大会で優勝すれば幸せ
地位や名声を得られれば幸せ
嫌な相手が居なくなれば幸せ
etc・・・・
もちろん人それぞれ欲する幸せというのは異なります。
そしてそれらを手に入れれば幸せという定義も人それぞれかもしれません。
そしてそれらを手に入れるために必用な感情といえば、それは欲望に他なりません。
そこで私たちは考えます。
欲望丸出しの性格は良くないと・・・
でもこの欲望を生み出す最大の要因は恐怖でもあるのです。
たとえば何かを食べたいと思う食欲は、何かを食べなければ死んでしまうという恐怖を避けるための行為であり、たとえば常に美しくありたいと願う欲望は、美しさを失う事により自分自身が他から阻害される恐怖から逃れたいためでもあります。
つまり恐怖を避けるための欲望といえるのです。
人は意識的であっても無意識的であっても、常にその行動の選択は快を追及することでしかないのです。
今周囲を見渡し自分の置かれた環境を見てください。
それが自分の考えで望む望まないにかかわらず、それらは意識する事も無く行われてきた快の選択の結果なのです。
それが潜在意識を含めた自分自身の本来望んできた結果なのです。
でもいつも望んできた事と違うのはなぜ?
それは恐怖と欲望という感情に蓋をしようとしたり、見て見ぬふりをしてきた結果でもあるのです。
自分が何を欲するのかではなく、常に自分がどう在りたいのか?いったい自分は何から逃れようとしているのか?その本質的なことを認めなくてはいつもと変わらない結果になるのです。
恐怖と欲望という感情を親しい友人として付き合うことが、自分自身の理解を深め、更なる発展が望めるのです。
2010-12-10
アラジンの魔法使い
皆さんもアラジンの魔法使いの話はよく知っていると思います。
その中に出てくる魔法のランプをこすると、中から魔法使いが現れてあなたの望みを聞いてくれます。
そして思ったはずです。
そんな魔法のランプがあったなら人生どんなに楽しい事でしょう。
実はその魔法使いは実際に存在するのです。
もちろんあなたの全ての望みを叶えてくれます。
しかもお願いする回数は3回までなんてけちな事はいいません。
願いを叶えてくれる回数にに制限がありません。
無期限無制限にあなたの望みをかなえてくれるのです。
そんなばかな!!そんな都合のいい魔法使いがいるわけが無いと多くの人が考えます。
もちろん以前の私もそうでした。
だって周囲を見渡したところでそんな話を聞くどころか、逆に夢や希望に浸りながら、静かな絶望の現実を歩む話しか聞く事もありません。
だからそんな話は単なるおとぎ話であると・・・
さてそれならその魔法使いは実際何処にいるのでしょう?
魔法のランプを見つけ出し手に入れなければならないのでしょうか?
いえいえ別に探しに出かける必要はありません。
魔法使いは必ず魔法のランプの中にいるわけではありません。
では何処にいるのだろう?
じつは魔法使いは常にあなたの中にいるのです。
しかも24時間一時もあなたを離れる事はありません。
いつでも何処でもあなたと共に居るのです。
でもそれならいつも願う思いが叶わないのはなぜなのでしょう?
それは無意識にあなたがそのように願っているからなのです。
常に不平不満を並べ立て、のっぴきならない状況を楽しむ事を願っているからなのです。
いつも夢や希望について考えているとおっしゃる方もいるとは思いますが、人の行動の大半はほとんど無意識に行われています。
何かを思いつく思考にしても今では脳科学の世界でも常識ですが、脳の中では思考が立ち上がる以前にそれを立ち上げるためのシグナルがどこかから送られてきているのです。
つまり思考すら無意識に立ち上がっているのです。
そして私たちはそれらの一部を認識しているだけに過ぎません。
ふだん無意識に立ち上がる思考も行動も、その大半を私たちは意識する事はありません。
しかし目の前に起きる現実となって初めて私たちはその事に気がつくのです。
それが自分自身が望まざる現実であっても、それは無意識に閉じ込められた記憶の再生によって引き起こされているのです。
「何でいつも自分にはこんな事ばかり起きるのだ!!!」
と嘆き騒ぐ事さえも、潜在意識の中ではそれが何度も繰り返し再生され、それを聞いた魔法使いがそれが望みであると思い込みそれらを実現しているのです。
私たちの中にいる魔法使いの願望実現率は100%です。
どんな願いにも常に「イエス」としか答えません。
そしてどんな願いも叶えようとするのです。
それの結果が頭の中で考える逆の事であったとしたら、それは潜在意識の中にそれらの記憶があることの表れなのです。
それが潜在意識の中に眠る記憶なのです。
私たちは潜在意識に眠る記憶のほんの些細な片鱗しか認識することしかできません。
だからこそんな嘆かわしい記憶に執着せず、それらを開放する必要があるのです。
いつでも何処でもどんな願いも、私たちの魔法使いは休むことなく実現しようとしているのです。
それはあなたが寝ていようと起きていようと関係ありません。
なぜなら潜在意識の中では休む事が無いのですから。
あなたは誤った願いを魔法使いにお願いしていませんか?
もし目の前の現実が嘆き悲しい事であるのなら、それは今までのやり方が誤っていた証拠です。
新たに方向を変えるための機会を知らせてくれているのですから。









